
6月9日日曜日の朝の神奈川テレビに聖坂養護学校の理事長の柴田昌一先生がご出演と友人からメールがあり、観ることができました。長男がお世話になった学校、そして私が大好きな学校です。来週の日曜日16日8時半から続編のようです。
重度の自閉症プラス知的障害の長男の教育、教育に至る以前のともに心地よく過ごすということすらとても難しいと感じた時期もありました。小学校時代には様々な行動上の問題に悩み、パニックに陥る息子の苦しそうな顔を見ながら、母が医師でありながら、いろんな状況をうまくコントロールできない申し訳なさに立ちすくんだことも一度や二度ではありません。中学校の進路に悩みながら、この学校はキリスト教を基盤にした道徳観が根底だという基礎知識くらいで説明会にいきました。松井校長先生からこの学校についてのお話を聞きながら、長男のことをややそっちのけで深く心を動かされたのがまだ昨日のようです。
聖坂養護学校の前身は水上学校です。昭和半ばまで横浜港には水上生活者がいて、そこで船から降りる機会も少なく過ごす子どもたちのためにこの学校ができたとのこと、水上生活者の問題が解決されたあと、せっかくできた学校を、当時全く守ってくれる制度もなかった知的障害児のためのものに生まれ変わったのが昭和42年とのことです。私の弟が生まれた頃です。ずっと横浜に暮らしながら、そんなことも知らずにいたこと、またずっと前から人知れず素晴らしい働きをしていた先人がいること、双方を思い知り、学校説明会ということも忘れて泣きそうでした。
私は横浜市南区で生まれて水上生活のことまでは知らなかったけど、それなりに寿町などのドヤなどさまざまな生活の人が近くにいることはも知りながら育ちました。子どもの頃からの念願がかない、その寿町近く(当時)にある横浜市立大学医学部へ進むことができました。リハビリテーション科に興味を持ったのは、当時のリハ科科長の大川嗣雄先生の講義を聴いたとき。モナリザが上野にやってきた年の美術館のアナウンス、”車椅子の方もどうぞ、水曜日の午前中に”というのをどう思うか、と教壇の上からた訪ねられた時が、マイノリティについて真剣に考えるはじめだったと思います。
リハ医になって横浜市総合リハビリテーションセンターにいた頃、在宅リハという部門にもたずさわり、たくさんの障害をもつ方のおうちを訪問しました。対象は大人になった後に障害をもってしまった脳卒中や脊髄損傷の方が多かったです。お風呂の改造や段差解消の相談を受けながら、押し入れを開けたり、奥の小部屋に行くと、知的障害者がふと隠されていることに何度か遭遇しました。私が出会った座敷に隠された障害児が大人になった人たちは、むしろ立派な一家の中で、親で、兄弟で、親戚で、方法はともかく何とか頑張ってきた人たちが多かったです。
この学校では宗教的な取組から”その子”が大切にされています。健常(その境界ラインも謎ですが)に近づけるのが目的でなく、神様からいただいたその子の賜物を引き出すことが第一という理念が高く掲げられていました。書いてしまえば当たり前のことですが、教育の現場でどこでもこのように子どもを大切にしてもらえているでしょうか・・・先ほどの大川先生も含めた先人の御尽力で、”就学猶予”という名の教育機会の奪取は横浜では全国に先駆けてなくなりなくなり、現在は全員就学となりました。さらに障害をもつ子どもたちがリハビリテーションを受ける機会もまだ不十分ながえら増えてはいます。ただそのリハビリテーションの場面、特別支援教育の場面で、最重度の知的障害をもってしまい自傷行為が止まらない、最重度の身体障害をもってしまい息をするのもままならない、そういう生きづらさを抱えた子と接するに対し、対人間としてどう接するかのゆるぎない理念、愛情は持てているのでしょうか。見かけは少し違うけれど、この世に生まれ、いつか死んでいくという点で誰も何も変わりはなく、まず隣人を愛し(私は洗礼を受けたクリスチャンではありませんが)日々を大切に生きるしかないと、この学校に関わる間にじわじわと教えられました。リハビリテーションの方法論、訓練の方法、~法という教育法…そういうものの前に、その子の中にある賜物を見守る気もちがないと、特に重度の障害をもつケースとは向かい合いきれないのではと思います。
私自身も、長男もまだ未完成。でも自分の中の理念は忘れず過ごします。さまざまな巡り合わせに感謝し、自分に与えられた役割をはたしていきたいと思います。聖坂のこと、大川先生のこと、いろいろ思い出した放映でした。