予期せぬことを受け入れることはとても難しいことですね。自分や家族が、“障害”を負ったとき、受け入れる過程(受容する過程)についても様々な研究がおこなわれています。
分類に差はありますが、①ショック期→②否認・混乱期→③抑うつ期→④受容期と段階を追うようにまとめられているものが多いです。例えば、交通事故などで“下肢の切断”などのけがを負う。①膝から先のない自分に驚き慌てふためく②そんなはずはない、夢ではないか、と現実から目をそらす③もうこの先今までのような仕事も趣味もできないと、生きる望みを失う④義足をつけた新しい自分と、新しい人生に踏み出すことができる、こんな感じでしょうか。
子どもが障害をもった場合にも、同様なモデルが当てはまりはしますが、親の人生、その子の人生という二つの視点が必要となり、もう少し複雑になるかもしれません。
ちょっと考えてみると、いろんな予期せぬ事態が起こった時も私たちは、こんな過程を踏んで乗り越えていってる気もします。
“自閉症の長男が、作業所にやや不適応”という現実に、少し前に向き合うことになり、その事実に対し、私自身も実は今、まだ③や④を行ったり来たりしています。重い障害をもちながらもなんとか周囲に助けられ、うまく暮らしてきた中で、私も非常勤ながら仕事もできていたので、ショック!!しかし、これ以上無理に通わせるのは不適当と、思い切って休みを取らせざるを得なった時には“万事休す”の文字が目の前に浮かび大混乱しました。
9か所にものぼる非常勤先の外来をどう振り分けたらいいんだろう、なぜ自分がこんな目に合うんだ、明日はさらっと何とかなるかも、自分の子もどうにもできないくせに何が医者だ、などの私サイドのこと、また彼サイドでは”彼が生きる場所はこの世にないのか”(今、思えば大げさ^^;)、などなど、さまざまな想いが駆け巡り混乱しました。
“苦しみながらも過ごす時間”、これこそが、前に進める大切な原動力だった気がします。血をふいていた傷が、ゆっくりかさぶたに覆われるような感覚でしょうか。自分について省みたり、多方面のみなみな様にヘルプを求め、大きくは予定を崩さす④に至れそうな気配です。
今、自分と長男に与えられた環境に中で策を考えるしかない。最善ではないかもしれないが、次善の策を尽くそうと考えられるようになりました。(“最善の策がだめなら次善の策を”というのは、大倉山の素晴らしい先輩女医からいただいたお言葉です。)まだ、一寸先は闇ですが、次善を尽くして、今持っている駒で戦っていこうと思っている次第です。
子育ての途中、お子さんのことで苦しいとき、今、自分がどの段階なんだろう、どんな次善の策があるんだろうと、客観的な視点にたつことで、少し気持ちえお立て直すのに、役に立つこともあるかもしれません。
これは長男のブームのCDです。知人のプレゼント。寝はしませんが(^_^;)、かけ始めて数曲目くらいでふ~っと力が抜ける感じが。音楽は助けになりますね。
