”自立させる”という正義の旗印のもとに、人に頼ることを叱ったり、できるまでやらせることが、障害児教育の目標となってしまうことがまだまだ少なくないのが現状です。たとえば、着替えが遅い、できない場合、漫然と”できるまで続けさせる”ことって、本人にとっては”お仕置き”みたいなもの。それでできるなら初めからできるでしょう。着替えががどこで滞ったか(手先?体幹?集中力?空間認知?視知覚認知?好み?…)よく観察して、不足な要素を地道に埋めていかなければなりません。どのくらいが目標設定で、何がその子に必要な要素なのを見つけるには本人をよーく見てあげることが必要です。そして、やはりどうしてもできない場合もあるのですが、それで大きく失望する必要はないことだと思っています。
大きくなった子をみて感じるのは、詰め込まれたノウハウよりも、その子自身の生きる力になるのは、”沢山の人に耳を傾けてもらえた””自分を理解しようとしてもらえた”という経験だと思います。
”心の健康”が保たれて、いわゆる問題行動が回避できれば、様々な介助やサービスを受けることができますが、”心の健康”が保たれないと、もともとの力が発揮できないし、社会での行動範囲が狭くなってしまいます。
長男が養護学校を卒業して作業所のペースになかなかなじめず調子を崩した頃も、学校を思い出すと、たくさんの先生方にあんなに愛されて育ったのだから、きっとまた調子は戻ってこられるはずと(希望も込みこみながら^^;)心を強くすることができました
今も、時短、間引きで作業所に通う彼。フル出勤から今のペースに切り替えるには、ちょっと勇気がいりました。でも、絶えず全員が、ある”ひな形”に向かって上り続ける必要はない。下り列車に乗り換えても、笑いながら進んだ方がいい人もいる。うちは下り鈍行で、でもケラケラいきたいと思う所存です。
長男の母校のバザーが近づいてきました。写真はその昔、彼が在籍したクラスの共同作品。
長男もバザーに遊びに行きたいようです。それなりに先輩面するのかな
