人にやってあげる、やってもらうって、いう時にどんな心構えが必要なんだろう…。なんとなく高校生の娘との夕食後の雑談からいろんな話になりました。
娘の学校ではボランティアの宿題がありました。小学生までは喜々として出身保育園などに行っていたのですが、中学生くらいから行きたくないと^^;彼女曰く、中学生がボランティアと言ったって、かえってお世話をかけるばかりでボランティアなんかにならないという理論。まあ一理あります。(でしょうか?)
知人はこどもの施設に綺麗に洗った子供服をもっていったら、入所中の小学校高学年の男子に”新品持って来いよ”と睨みつけられ意気消沈していました。
子どもの頃ですが、母が私のクラスの経済的に困ってるお友達に、少々日用品を渡していました。子ども心に私の感じた気まずさは今、思い出しても胸が詰まります。
…こんなような話がいろいろ出てきました。やってあげてる人間は、そうできたことで十分な満足感を得ているわけだから、相手から何も望むべきではないというのが、現時点での結論です。いろんな考え方があるんでしょうが、人間同士で”してあげる”という行為を行うのは難しいことですね。
人が育っていく過程で、親子の中でもそんな葛藤がありますね。自分でできる、自分でやりたい、親の支配から抜け出したい、親をはねのけたい、そういう葛藤をかつて自分乗り越えてました。
しかし、子どもに障がいがあり、”いわゆる自立”(身の回りのことができ、自分で稼いで生きていく)がのぞめない場合、この大多数の子育てにあてはまる構図が成り立たなくなってしまします。いつまでも親は”やってあげなければ””自分がいてこそ”という気持ちを払拭できず子どもさんに接してしまう(含む私^^;)…。子どもがそういう親を嬉しく感じるのは何歳まで何でしょうか?
成人した障がいのある長男と接しながら、またたくさんの患者さんと感じながら考えます。確かに社会的な資源がどこまで準備されているのか?、もちろん親としての責任は?ということもあるので、簡単に放り出せばよいと言ってるわけではありません。それでも、親だから何でもわかる、こんなにやってあげているのだから、というのは遅くとも15歳では、手放した方が良い感情だったな~と感じます。ある時期までしっかり関わり、あとは放り出す、少なくとも精神面ではそんな、ライオンのような子育てができればと思うのですが…。
あ~、偉そうなこと書きました。私自身いつまでも赤ちゃんのように長男に接することしばしば(-_-;)辛辣な娘に、”可愛いでなくてかわいそうって思ってるんじゃないの?”とかじろっと見られています。”ママがひたすら愛玩していいのはこっち!”と犬を指さされる毎日です。
