思えば、仕事を初めて四半世紀が過ぎました。
今春、父が入院しリハビリテーションを受けた時、何回か訓練室まで伺いました。私が横浜市立大学附属病院リハビリテーション科研修医時代にご一緒した理学療法士さん、作業療法士さんに、父がお世話になり、素晴らしい訓練をしていただきました。控室にも、少し入れていただくと、懐かしい土屋先生、大川先生という、横浜市立大学リハビリテーション科の創立者のお写真が・・・。父のおかげで、思わぬところで初心を思い出した春でした。
昨日は障害児歯科を勉強中の歯科医さんが明子外来に来てくださいました。いろんな良いお話ができました。なぜ私がリハビリテーション科にたどりついたかなんて質問も受けました。
そして今日は新横浜で活動をしている訓練会で、お話させていただく機会をいただきました。もともとママ友つながりでいただいたようなお話。伺ってみると見知った顔多数で可笑しかったです。
春、昨日、今日と、いろんなこれまでの振り返りが集中しました。自分の特性、療育を考えるときのヨコハマの特性、振り返ると面白いです。
私は横浜市南区で生まれです。子どもの頃の大けがで母が運び込んだ(救急車ではなく(笑))横浜市大附属病院。治療を受けた子ども心の憧れがそのまま続き、大学医学部へ進むことができました。リハビリテーション科に興味を持ったのは、当時のリハ科科長の大川嗣雄先生の講義を聴いた大学4年の時。モナリザが上野にやってきた年の美術館のアナウンス、”車椅子の方もどうぞ、水曜日の午前中に”というのをどう思うか、と教壇の上から訪ねられた時が、私がマイノリティについて真剣に考えるはじめだったと思います。まだまだそんな時代。大川先生は長男が生まれる直前の産休中に亡くなりました。大学4年から出入れさせていただいていたとは言え、もっともっといろんなことを教えていただきたかったと今でも残念です。長男にも会っていただきたかったなとも。
リハ医になって横浜市総合リハビリテーションセンターにいた頃、四半世紀近く前?、在宅リハという部門にもたずさわり、たくさんの障害をもつ方のおうちを訪問しました。対象は大人になった後に障害をもってしまった脳卒中や脊髄損傷の方が多かったです。お風呂の改造や段差解消の相談を受けながら、押し入れを開けたり、奥の小部屋に行くと、私が呼ばれた身体障害の対象者とは別の、知的障害者がふと隠されていることに何度か遭遇しました。座敷に隠された障害児が大人になった人たちは、むしろ立派な一家の中で、親で、兄弟で、親戚で、方法はともかく、社会制度に頼らず声も挙げず、何とか頑張ってきた人たちが多かったと記憶しています。
そして、たまたま知的障害の長男を授かりました。長男は中学校から聖坂養護学校でお世話になりました。聖坂養護学校ではプロテスタントの宗教的な道徳感のもとに”その子”が大切にされています。健常に近づけるのが目的でなく、神様からいただいたその子の賜物を引き出すことが第一という理念が高く掲げられていました。大切な真実がそこにはあると思います。
先ほどのわが師、大川先生も含めた先人の御尽力で、”就学猶予”という名の教育機会の奪取は横浜では全国に先駆けてなくなりなくなり、全員就学となり、こどもを押し入れに隠すことはなくなりました。横浜は、障害をもつ子どもたちがリハビリテーションを受ける機会も他都市に比べいい状態だと思います。ただ、どんなノウハウ、方法論、訓練の方法、~法という教育法…そういうものの前に、その子の中にある賜物を見守る気もちがないと、特に重度の障害をもつケースとは向かい合いきれないのではと思います。
肢体不自由、知的障害、発達障害…思わぬ偶然から、公私ともにいろんな経験を積んでこられたものだとな~、これって稀有?なんて、感じた週末でした。大きなことはできない自分。地元に根差し、日々会えた人たちといろんなことを考えることからだ!!と感じた週末でした。お嫁に来て、なじめないな~と思った港北区でしたが、もう逃げ出せない(笑)たくさんの出会いに感謝しています。まず小さなモデルをいろいろ考えていきたいと、小さくこぶしを握り締めています。
写真は大けが前後のころ。当時の成美幼稚園でぶいぶい言わせてたころの私。
